なぜ日本は日米和親条約を結んだのか?

日本大百科全書(ニッポニカ)「日米和親条約」の解説

日米和親条約にちべいわしんじょうやく

幕末期、日本の欧米諸国への開国の起点となったアメリカとの最初の条約。神奈川条約ともよばれる。日本側全権は林韑(あきら)(儒役)、井戸覚弘(さとひろ)〔町奉行(ぶぎょう)〕、伊沢政義(浦賀奉行)、鵜殿長鋭(うどのながとし)(目付)、アメリカ側全権はM・C・ペリー(東インド艦隊司令長官)。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、武蔵(むさし)国横浜村(横浜市中区)で調印、翌年批准書交換。両国の永遠の和親、薪水(しんすい)・食料・石炭その他欠乏品の供給のため、下田(しもだ)・箱館(はこだて)二港の開港、漂流民の救助と撫恤(ぶじゅつ)、開港場での必需品提供と外人遊歩区域の設定、アメリカへの最恵国待遇、調印より18か月以後における下田への外交官派遣の許可、などが規定された。この調印を契機として幕府は、以後イギリス、ロシア、オランダとの和親条約締結にも応じていった。

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この条約では、まだ日米両国人民の自由貿易は認めていなかったが、片務的な最恵国待遇の供与や開港場に逗留(とうりゅう)するアメリカ人の日本の国法遵守義務規定の欠如のなかに、不平等条約としてのこの条約の性格がすでに現れていた。しかもこの条約は、18か月以後における外交官派遣を許可していたため、アメリカは早くも1856年(安政3)初代駐日総領事T・ハリスを下田に派遣し、対日通商権および領事裁判権(居留民への治外法権)などの獲得を目ざして幕府に新条約の締結を迫ることになった。

[芝原拓自]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「日米和親条約」の解説

日米和親条約にちべいわしんじょうやく

幕末の嘉永7 (1854) 年3月3日神奈川で調印されたアメリカ合衆国との最初の条約。 12ヵ条から成る。神奈川条約とも呼ばれる。同6年6月浦賀に来航した M.ペリーが江戸幕府に強硬な交渉を行なって開国を要求し,いったん退去,次いで翌7年1月に江戸湾に入って回答を促した。老中阿部正弘らは戦争を回避するためペリーの要求に応じることを決めて,次のような内容の和親条約が締結された。 (1) 下田,箱館の両港を開き,難破したアメリカ船舶に対する便宜を供与する。 (2) アメリカは常駐代表を下田に設置する。こうして日米間の国交が樹立され,日本は 200年以上にわたる鎖国を放棄した。同条約とほぼ同じ内容の条約がイギリス,ロシア,オランダとの間に締結された。

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旺文社日本史事典 三訂版「日米和親条約」の解説

日米和親条約にちべいわしんじょうやく

1854(安政元)年,江戸幕府がアメリカとの間に結んだ条約
神奈川条約ともいう。1854年に再度来航したペリーが,武力を背景に神奈川で幕府と交渉し,調印。その内容は,下田・箱館の開港,漂流民の救助,寄港船への燃料や食糧などの供給,片務的な最恵国条項,領事の日本駐在など12条からなる。貿易の規定はないが,日本開国の第一歩となり,幕府はついで同様の条約をイギリス・ロシア・オランダと締結した。

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防府市歴史用語集「日米和親条約」の解説

日米和親条約

1854年(安政元年)日本とアメリカとの間で結ばれた条約です。日本はアメリカに対して燃料や食料を提供する、船や乗務員を保護する、下田・箱館(函館)の2港を開港する、領事の駐在を認めること、日本が他の国と結んだ条約の中で有利な条件は自動的にアメリカにも与える最恵国待遇[さいけいこくたいぐう]を認めるという内容でした。

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旺文社世界史事典 三訂版「日米和親条約」の解説

日米和親条約にちべいわしんじょうやく

1854年3月31日に日本がアメリカのペリーと横浜で結んだ開港条約。神奈川条約ともいう
下田・箱館の開港,領事の下田常駐などを規定。片務的最恵国待遇も盛り込まれて,不平等条約の始めとなった。

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デジタル大辞泉「日米和親条約」の解説

にちべい‐わしんじょうやく〔‐ワシンデウヤク〕【日米和親条約】

安政元年(1854)神奈川で、江戸幕府と米国使節ペリーとの間に結ばれた条約。米国船の薪水・食料などの買い入れを認め、下田・箱館の開港、下田に領事を置くことなどが規定された。神奈川条約。

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百科事典マイペディア「日米和親条約」の解説

日米和親条約【にちべいわしんじょうやく】

→神奈川条約

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精選版 日本国語大辞典「日米和親条約」の解説

にちべい‐わしんじょうやく ‥ワシンデウヤク【日米和親条約】

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世界大百科事典内の日米和親条約の言及

【阿部正弘】より

…その後,奏者番,寺社奉行を務め,43年に老中に就任し,45年首席老中となった。53年アメリカ使節ペリーの開国要求に対し,諸大名,幕臣に諮問して衆議制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,松平慶永,島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとり,従来の幕政の姿勢を転換した。…

【神奈川条約】より

…1854年3月31日(嘉永7年3月3日)神奈川で調印された日米和親条約のこと。日本の開国の第一歩となった条約である。…

※「日米和親条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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なぜ日本は日米和親条約を結んだのか?

幕末に締結された「日米和親条約」と「日米修好通商条約」は、名前がよく似ているうえに締結された年も近く、条約が締結された歴史的背景にも共通点があることから、違いを理解するのに苦労している方も多いと思います。

そこでこの記事では、両条約が締結に至った背景や条約の“その後”にも着目し、二つの条約の違いを解説します。

目次

  • 1 日本に補給基地としての役割を求めた「日米和親条約」
    • 1.1 日米和親条約は貿易のための条約ではない
    • 1.2 日米和親条約の内容
  • 2 アメリカにとって有利な貿易をするために結ばれた「日米修好通商条約」
    • 2.1 日米修好通商条約は日米間の貿易ルールを定めた条約
    • 2.2 日米修好通商条約の内容
  • 3 「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の違いはココ!
  • 4 条約締結の背景をよく理解しよう!

日本に補給基地としての役割を求めた「日米和親条約」

なぜ日本は日米和親条約を結んだのか?

日米和親条約は、1854年にペリーにより締結された条約です。この条約は、日本の鎖国を終わらせた重要な条約です。

日米和親条約は貿易のための条約ではない

日米和親条約は、その名のとおり日米が仲良くするためのもので、貿易に関する条約ではありません。実際、日米和親条約の第6条では、日本とアメリカが貿易や交渉をするときは、あらためて条約を結ぶことを定めています。

では、両国は何のためにこの条約を結んだのでしょうか?

当時、アメリカは太平洋での捕鯨や清国との通商のために、安全に寄港できる港が必要でした。

一方、日本は大国であるはずの清国がアヘン戦争でイギリスに負けたのを目の当たりにして、欧米列強の圧力をかわしたいという思いがありました。

このような両国の思惑の下、日米和親条約は締結されたのです。

日米和親条約の内容

日米和親条約に基づき下田と函館が開港され、下田には領事館が置かれることになりました。そして、日本が他国と条約を結んだ場合、有利な条件は自動的にアメリカにも付与されることになりました(片務的最恵国待遇)。片務的最恵国待遇は、日米修好通商条約にも引き継がれます。

なお、日米和親条約では函館での自由貿易は認められておらず、水や石炭、食料など決められた物品のみが販売できました。価格は日本側が決め、支払いは金・銀とされていました。

アメリカにとって有利な貿易をするために結ばれた「日米修好通商条約」

なぜ日本は日米和親条約を結んだのか?

日米修好通商条約は、日米和親条約締結から4年後の1858年にハリスにより締結された条約です。ハリスは、初代の駐日総領事です。

日米修好通商条約は日米間の貿易ルールを定めた条約

日米修好通商条約は、日米和親条約からさらに一歩踏み込んで、両国間の貿易ルールを定めるために結ばれた条約です。

日本総領事であったハリスは日本との貿易を強く望んでおり、幕府に対して通商条約の締結を迫っていました。しかし、進展の見られない交渉に業を煮やしたハリスは、1856年に清国と英仏の間で勃発したアロー戦争などを引き合いに出して幕府に圧力をかけます。

結果として、大老の井伊直弼が朝廷や天皇の許しを得ないまま条約を結び、のちの安政の大獄や桜田門外の変へとつながっていきます。

なお、日米修好通商条約締結後、日本はイギリス・フランス・ロシア・オランダの4国とも同様の条約を結びます。日米修好通商条約と、他の4ヵ国との間で結ばれた条約を合わせて“安政五ヵ国条約”と呼びます。

日米修好通商条約の内容

日米修好通商条約により、日本は下田と函館に加えて、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫の4港を開港することになりました。そして、江戸と大坂については開市、つまり居留は認めないものの、取り引きのために立ち寄ることはできるとしました。

しかし、日米修好通商条約は、

  • アメリカに領事裁判権を認めていたこと
  • 日本に関税自主権がなかったこと
  • 片務的最恵国待遇が定められていたこと

など、日本にとって不利な内容の多い条約でした。さらに、金貨銀貨の輸出が認められていたため、日本の金貨が海外に大量に流出し、日本国内にインフレをまねく結果となりました。

この不平等な条約の改正は、日本が日露戦争に勝利してポーツマス条約を締結した1905年から、さらに6年後の1911年まで待たなければなりませんでした。

「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の違いはココ!

それでは、日米和親条約と日米修好通商条約の違いをまとめてみましょう。

名称 日米和親条約 日米修好通商条約
締結年、関わった人物 1854年、アメリカのペリーと老中筆頭の阿部正弘、大学頭の林復斎との間で結ばれた条約。 1858年、初代駐日総領事のハリスと大老の井伊直弼との間で結ばれた条約。
条約の概要 和親を結ぶための条約。貿易に関する内容は他の条約で定めるとしている。 貿易のルールを定めた条約。
開港場所 下田・函館を開港。 下田と函館に加え、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫の4港を開港。江戸・大坂を開市。
条約内容 食料や燃料の補給・難破船や乗組員の救助・領事館の設置・片務的最恵国待遇などが主な内容 。 領事裁判権・日本の関税自主権の欠如・片務的最恵国待遇など不平等な内容が多かった。

なお、いずれの条約締結においても、清国と欧米列強との戦争が大きな影響を与えています。清国に勝利したヨーロッパ諸国の存在は、当時の日本にとって非常に大きな脅威であったことがうかがわれます。

条約締結の背景をよく理解しよう!

今回は、日米和親条約と日米修好通商条約の違いを解説しましたが、大学の入試問題は表面的な知識だけでは解答できないものも数多くあります。条約の名前や内容だけではなく、条約締結に至った背景など、世界の動きにも注目して勉強するようにしましょう。

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なぜ日本は日米和親条約を結んだのか?
  アドバイス  

日米和親条約 誰と誰が結んだ?

1854年、アメリカのペリーと老中筆頭の阿部正弘、大学頭の林復斎との間で結ばれた条約。 1858年、初代駐日総領事のハリスと大老の井伊直弼との間で結ばれた条約和親を結ぶための条約。 貿易に関する内容は他の条約で定めるとしている。

日米和親条約の日本にとって不利な点は?

日米修好通商条約 治外法権(領事裁判権)を認めたことと,関税自主権がないこと,この2日本にとって不利なものでした。 外国人が日本で罪をおかしても,その国の領事が裁判し,日本の裁判にかけることができないことです。

日米修好通商条約 なぜ不平等?

1つ目は、日本がアメリカの 治外法権(領事裁判権)を認めていた 点です。 どういうことかというと、 日本で罪を犯したアメリカ人を、日本の法律で裁くことができなかった のです。 2つ目は、日本の 関税自主権がなかった 点です。 関税というのは、外国から輸入した品物にかけられる税金のことです。

日米修好通商条約の調印のきっかけとなったのは、アメリカ総領事の誰の要求であったか。?

安政3(1856)年7月21、下田に駐在するため初代アメリカ総領事として来したハリスは、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を幕府に求めまし