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ぴよ みかん このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。 「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。 横浜に20年以上も住んでいると県外の友人が訪れてきてくれることもあります。「夕食は何が良い?」と聞くと、やはり「横浜中華街」と多くの友人が答えます。 要望に従って横浜中華街を歩いていると物珍しい彼らは素朴な質問を私たちに投げかけます。 「そもそも中国の人がなぜわざわざ横浜中華街にやってきたの?」 そんな彼らが抱くもっともな質問に答えられない横浜在住の我が身に嫌悪感を感じることが多々あります。そこで横浜中華街の歴史的な背景について調べることにしました。
なぜ中国の人が横浜中華街にやってきたのだろう?横浜中華街は横浜市の中区にあります。中区は中華街の他にも山下公園や関内や元町など多くの観光地が集まっています。 「横浜市統計書」によると、横浜市全体(全区)の住人のうち中国の人は1.1%であるのに対し、中華街のある中区は6.5%と多いことがわかります。当然と言えば当然なのでしょうが、中区の隣の区で横浜駅やみなとみらいがある西区も全区同様の1.8%と比べると、改めて中華街のある中区に中国の人が多く暮らしている実態が見えてきます。 そもそも中華街に暮らす中国の人はなぜ日本にやってきたのでしょう? 中国の人が祖国を離れた背景、なぜ日本の横浜だったのか?という中華街を訪れてくれた観光客の問いに対して、横浜住民として説明できれば案内する際に役に立ちそうです。 横浜市全区(市全体) 横浜市中区 横浜市西区 参考:横浜市「横浜市統計(令和元年)」 19世紀中期に高まる出国熱そもそも中国の人が横浜中華街にたどり着いた経緯を知るために文末の参考文献で紹介している通り書籍「横浜中華街」を参考にしました。複雑な歴史背景ではあるものの、なるべくシンプルに整理してみました。 そもそも「なぜ中国の人が祖国を離れたのか?」という点については19世紀の中頃にまでさかのぼります。 1842年にイギリスとのアヘン戦争に敗北した清国(中国)はそれまで渡航を禁止していた「海禁令」を廃止しました。その後も1851年の太平天国の乱に代表される通り、国内の政情も安定しません。アヘン戦争の引き金ともなったイギリスとインドとの三角貿易の高まりで広州などの沿岸部に内陸部から貧しい農民が移住し、沿岸部の都市は人口増加とともに失業率も増えていったそうです。 貿易を通じて商売のスキルを獲得していた沿岸部で暮らす人達は、政情不安と暮らしにくさで出国熱が高まっていきました。さらに中国では昔から不老不死として珍重されてきた昆布が日本で採れることに商機を感じるようになっていました。 安政5カ国条約で日本が貿易開始中国の人の出国熱が高まっていた頃に日本が貿易を始めたのです。 1854年のペリー来航まで閉ざされていた日本が1859年には日米修好通商条約を機にアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5カ国と貿易を始めるのです。 すでに「海禁令」が廃止され、三角貿易で培った商売のスキルをもち、国内の政情不安と居住問題や就労問題に苦しんでいた中国の人たちにとっては日本の開国は大きな契機となりました。 商魂たくましい中国の人にとって日本の昆布も魅力的な商材でした。 ただ1859年の安政5カ国条約には残念ながら清国(中国)は含まれておらず、日本での中国の人の活躍の機会はないように思いますが、この壁を打ち破ったのが「漢字」だったのです。 欧米人と日本人の架け橋1859年の「安政5カ国条約」で欧米が日本と貿易を行う上で障害になったのが言葉です。コミュニケーションが取れないことには商売も始まりません。 その点、中国の人は日本人と「漢字」を使って筆談で意思疎通が可能です。欧米の人たちは中国の人を通訳や交渉のために雇用し、日本に連れてきました。 すでに欧米の人たちとのネットワークがあるだけでなく、貿易の商売スキルを持ち合わせ、その上に筆談による通訳となる中国の人は欧米の人たちに貴重な存在だったでしょう。 1871年に日清修好通商条規が結ばれ日本と清国(中国)との貿易が許されると、欧米の人に雇用されるだけでなく自らで商売を始める中国の人が日本を代表する貿易港である横浜で暮らすようになっていったのです。 横浜では海外の人が暮らせる地域を関内と呼ばれる地域に限定しており、中国の人たちは現在の横浜中華街に集まって暮らすようになりました。もっとも当時は現在のレストランが立ち並ぶ横浜中華街の様相とは異なり、欧米の雇用人や貿易や商売を行う中国の人たちが暮らしていました。 まとめ横浜中華街になぜ中国の人たちがいつ頃、どんな歴史的な背景でやってきたのか?という点について、あえてザックリと整理してみました。 そもそも19世紀中頃の国内事情により出国熱が高まっていた商売スキルをもつ中国の人が、幕末の開国を機会に欧米の人々の通訳や交渉役として雇われて日本にやってきました。 商売の才に長けた中国の人たちは、そのまま日本に住み続け現在の横浜中華街の発展へとつながっています。もし清国(中国)の国内情勢が異なるもので、そもそも中国の人に商売の才を持ち得なかったのなら、さらには漢字という日本人との共通のコミュニケーション手段が存在しなかったなら、ペリーによって日本の国が開かれなかったなら。様々な事象が歴史の中で重ならず、何かが欠けていたなら、もしかしたら現在の横浜中華街の発展はなかったのかもしれません。そう考えると、当たり前のように存在する中華街の歴史を、せっかく横浜を訪れてくれた友人に伝えたくなります。 参考文献横浜市「横浜市統計書」 書籍「横浜中華街」田中健之著 最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。 途次大志 途次大志のプロフィール紹介 投稿ナビゲーション
チャイナタウンの歴史は?1848年にカリフォルニアで金が発見されてゴールドラッシュが始まり、中国人が工力として移住したのが始まりで、のち大陸横断鉄道建設に従事して次第に大陸東部へ移り、定着してチャイナタウンを作る。 アメリカのチャイナタウンはその出発点が「差別から自己を守るためのチャイナタウン」、今も居住住民のための実用的機能を果たしている。
日本初の中華街は?横浜、神戸、長崎にある中華街は日本の三大中華街と言われています。 その始まりは1571年に長崎港、1859年に横浜港、1868年に兵庫港とそれぞれが開港され、各地に西洋人のための外国人居留地が作られたことがきっかけとなっています。
チャイナタウンの由来は?16世紀になり、西欧の貿易植民地権力がこれらの港市に到着し、そこに存在していた中国人たちの居住地を”チャイナタウン”と呼んだ。
中華街の別名は?幕末、1859年に横浜の港が開かれた頃、ここ中華街のあたりは横浜新田と呼ばれていました。 現在の南門シルクロード、開港道、長安道はそのあぜ道の名残と言われています。 港町横浜には世界各地の人々が訪れ、中国の広東・上海などからも大勢の人がやってきました。
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